同窓会ホームページ14年ぶりフルチェンジ
- At 2011年12月2日
- By dousoukaiadmin
- In News, お知らせ, ふるさと情報便
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開設以来13年8ヶ月が経ちました。6年前 もっと簡単にとの事で、Wikiシステムを取り入れて来ましたが、何回もの不具合が生じ、昨年より新HP移行を検討してきました、この度、完成し 旧HPから新HPへ切り替えの時が来ました。
同窓会事務局・HP管理委員会では、下記のように切り替え計画をたてましので、宜しく御協力をお願いします。
* 切り替え日 12月22日(木)18:00
後は現在のHPにアクセスした場合、新HPに転送されます
* 現行HPの更新凍結期間
12月7日~12月23日まで、HPの更新をしないようにお願いします。
接続、閲覧は出来ますが、更新された内容は、新HPに反映されません。
* 新HPについて
① ワードプレス ブログタイプ 旧HP内容は全て移行 メモリー無限
② 旧HPも閲覧可能
③ Word感覚で更新が出来ます(Wikiより簡単)
④ 支部・回数学年・委員会等個々にパスワードあり(セキュリティー強)
⑤ Facebook・Twitter・等機能拡大
* 新HPについての講習会等は行いませんが、更新を希望の方は、
学年・所属・MailADを添えて、電話か封書・同窓会・HP委員斎藤までMailで申し込んで下さい。
電子Mailで、更新マニュアルと担当管理者パスワードをお知らせします。
同窓会 電話 0265-23-2650 E-Mail ikdj@iikou-d.jp
HP委員会 斎藤 E-Mail j.saito@mis.janis.or.jp
信州の秋と小さな秋
- At 2011年11月15日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便
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秋といえば、殆どの日本人が思い出す“小さい秋みつけた”という曲がある。サトウハチローの詩に中田喜直が作曲した名曲中の名曲だが、この“ちいさい秋”には、田舎では感じられない別な香りが漂っている。
先日、下条村の極楽峠から和合へ、更に平谷から上矢作を経て恵那市へ抜ける機会があった。“極楽峠パノラマパーク”から伊那谷を望むと(写真上部:パノラマ)、あちこちに紅葉を眺めることができた。“満天星つつじ”の間から望む飯田、また親田原にはこれから収穫を迎える柿の畑と、秋はいっぱいだ(写真中:左と右)。
極楽峠を越え和合に抜け、和知野川沿いの谷間、更に売木川の渓谷沿いに走ると、いずれも紅葉に溢れている(写真下:左は和地野川沿いの谷間、右は売木川の渓谷)。とても小さな秋といった感じではない。これらの谷間だけでなく、伊那谷の一面、見渡す限りの秋は、実に“壮大”である。
しかし、この信州の大きな秋の中にいても、あの“ちいさい秋みつけた”という歌を聴き、また、歌うときは、全く別の感傷に浸ることができる。これは、あの詩の素晴らしさのせいなのだろう。 (原 健彦)
23年度総委員会開催される
- At 2011年11月15日
- By dousoukaiadmin
- In ふるさと情報便
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11月5日総委員会が開催されました。表題のように硬いイメージを受けますが、同窓会の各委員会相互の親睦の為に作られた会であります。今回の幹事はHP運営委員会が担当しました。
何時ものような会議の後に懇親会でなく、その前に、居ながらにしてよく知らない、「丘の上・母校ゆかりの地を歩く」と題し、母校の史跡と飯田城址を散策、小雨にもかかわらず、会報編集委員長中島正韶さん案内で、委員会のメンバー20人が参加した。
今に残す旧飯田町での移動は道幅が狭く、傘をさしての移動でしたが、母校開校の永昌院⇒自炊団自彊社(島地五六生地)⇒菱田春草生誕地)⇒普門院(飯田城の鬼門除け祈祷所 校歌3番の問題の山口お藤さんも一時祀られた)⇒天満天神社(飯田城御三霊も祀られていた)⇒藩主が馬場に通ったくつわ小路⇒桜丸御門、夫婦桜、脇坂門・水の手御門⇒追手町小学校(飯田中学の校章に「追」を入れたもの)約1時間少し、携帯電話の万歩計では5000歩を越えた、少し汗ばむ体で、懇親会会場へ。 散策組みを含めて27名 会議は各委員長から、現在の活動についての報告があり、宮島副会長の音頭で、乾杯。汗ばんだ体にビールが旨い。散策で感じたことや、高校時代の思い出を、全員発表でした、木下副会長から、喬木村の青竜会の話が出、各地区で歓迎コンパの、辛いカレーや、校歌・応援歌の特訓を受けた話しで、終始和やかな雰囲気でした。
最後に中島正韶さんの3番入りの校歌とラグビー班花園行きにエールを送った。たまたま同じ会場で会合中の飯田高校野球班にもエールも送り、次期幹事の名簿作成委員長増田郁夫さんにバトンタッチと万歳で散会した。
(写真は永昌院入口と説明風景 自彊社碑 追手町小学校校章) (斎藤 純)
「虎之図」春草画と判定される 他
- At 2011年10月4日
- By admin
- In ふるさと情報便
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「虎之図」春草画と判定される
はじめに、前月、春草Ⅱでの誤り 第20番中学区第1番小学飯田高校→飯田学校です。
下伊那郡阿智村在住の画家 吉川優さん所有の屏風絵「虎之図」が、春草17歳(美術学校学生)頃、親戚の屏風に描いた作品と9月28日に判明する。11月4~6日阿智コミニティーセンターで、吉川優個展で公開される。23.9.29付 信濃毎日新聞で報道される。続いて、飯田美博のプラネタリウムで「春草永遠のときを越えて」と題し35点の作品が12mのドームで公開されている。30日付同じく信濃毎日新聞に載る。
私は、春草画家生活第3期の絵がすきと書きましたが、2期明治34・35年に描いた作品、「蘇季訣別」・「王昭君」(168×371の大作)等、すごく綺麗に描けているのに、どことなく寂しい感じがしていた。生活苦から来る寂しさかとまで思った無知な私です。
当時、山形県の、漁業会社のお金持ちが、この美しさに、龍宮のお姫様と思い、縁起物として購入した、2000年前の中国の悲しい物語を描いたものと知り、鶴岡市の山の中の檀家善宝寺に寄贈したとか。
この物語、漢の王様が 宿敵北方の匈奴の国の王様に和解のしるしにと自分の宮女を差し出そうとした、大勢すぎて選択が出来ず、綺麗な順に最後の女を差し出そうと、絵描きに全ての宮女の絵を描くよう命じた、宮女は皆嫌がり自分を綺麗に書いて欲しく、絵描きに貢物をした、貢物をしなかった王昭君が選ばれた、お別れのとき、王は、王昭君の美しさにびっくりし悔やんだが、約束通り、寒い北国の匈奴国に送り出した。その後 絵描きは処刑された。
悲しがる王昭君は大切にされていたが、この国王も亡くなり、故郷恋しいと琵琶弾く日々が続いた、最後痩せ細って自害してしまう。
「蘇季訣別」然り再度この絵を見た。絵の人物(宮女)が複雑な憂いに満ちた気持で動きはじめた。春草の凄さを、改めて認識しました。
春草24歳 士族野上家の長女千代19歳と明治31年日本美術院創立の年結婚。描く絵が幾つも共進会等で受賞している、しかし受賞したからと言っても、売れなければ、生活できず、日本各地のお寺で模写の仕事に歩き、明治35年長男春男誕生の頃から(兄為吉飯田中学教員になる)、海外各地に、大観など同士と漫遊、その地方で展覧会を開く、我々の昭和20年代に1ドル370円位でしたから、行くには、兄や父などの世話になったが、アメリカ・イギリスあたりで絵が売れれば、すごい事であったろう。それを資金に、絵文化と接する為各国を発病の明治41年頃まで歩き回る。その間に、日露戦争当時は、船中で迫害を受けたり、生活苦から、兄貴宛に「アメリカの人は珍しい物が好きだから 天竜川沿いにある、岩芝を沢山送ってくれ 売れると思う」とのエピソードもある。これには、兄も呆れて、対応しなかったそうです。 千代にとっては13年の夫婦生活の中で、春草発病でしたが、自分の側にいてくれるこの数年が一番幸せだったろう。子供達も、お父さんの絵を描く姿や、描いた絵が、受賞する事のすごさを感じたと書かれている。眼も悪くなってからの何年かの間に、代表作「落葉」、宮内庁買い上げの「雀と鴉」「黒き猫」などが作成されている。
新居建設完成を目の前に、明治44年9月16日38歳で亡くなる。
今月も「虎之図」春草画判定のニュースで、又書いてしまった。
飯田市の規約は分かりませんが、現在の飯田市名誉市民は、日夏耿之助・河村繁俊(歌舞伎)・松井卓治(元市長)3人である。春草が外れている事は、残念である。飯田市橋北地区で、顕彰碑建立の活動があるので、橋北の先輩にこの事をお願いした。
(斎藤 純)
秋の南アルプスエコーラインと日本初の自然科学遺産“御池山いん石クレータ”
いつまでも、夏の暑さが続いていると感じていたのに、突然に“秋の涼風”を超えて、時には、“寒さ”まで感じるようになってしまった。布団をかぶって寝なくてはならない夜がある。秋の訪れである。そういえば、もう稲刈りも終わったところが多い。
南信州で、最初に“秋”を早く感じさせてくれるところは、“富士見台”、“しらびそ高原”“大平の宿”などの高地であろう。さっそく“しらびそ高原”から“下栗の里”への道、“南アルプスエコーライン”と呼ばれるようになっている南信濃の代表的なコースを走ってみた。
数年前に走った時は、道路も狭く、気が付かなかったのであるが、しらびそ高原から数キロ南に走った位置に“御池山いん石クレータ”と呼ばれる“日本初の自然科学遺産”の立派な看板ができていた(写真上左、右)。
この説明によれば、「御池山いん石クレータは、直径約900m、2万~3万年前に直径約45mの小惑星が衝突してできたものと推測されています。もともと地形が急な斜面にクレーターができたために、侵食して崩れた部分が多く、残っている部分は役40%ですが、御池山山頂の尾根沿いに半円形の地形が残っている、日本初の自然科学遺産です。いん石クレーターは、宇宙から流れ星となって落下する小惑星、彗星などが燃えつきずに、地上に衝突した際にできたいん石孔です。・・・」とある。
看板から数百メートル上ると、クレータを望む展望台があり、そこから眺めると前方の山の縁がクレータの外縁の形をしているのが想像できる(写真中左、右)。
今まで、日本のチロルとして有名な写真の多い下栗の里(写真下左、右)にのみ気を取られていたコースであるが、南信州に宇宙を見上げさせる素晴らしい自然の遺跡があったとは新しい驚きであった。
(原 健彦)
春草Ⅱ/小さな部落の小さな行事 他
- At 2011年9月30日
- By admin
- In ふるさと情報便
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春草Ⅱ
どの資料を見ても春草の青春時のことは、あまり書いてない。7人兄弟である事を知り、春草の本3冊を読んでしまった。そのきっかけは、たまたま開いた、飯田高校同窓会名簿で、兄為吉が飯田市伝馬町1の永昌院(下伊那郡立飯田中学校)第1期生である事(大江(小平)磯吉も同期)、弟 唯蔵も中学第1期生である事だった。同窓会事務局長に、その年代の詳しい資料はないかと尋ねてみた。春草の本 色々物色したが、生誕100年記念に発行された、下伊那教育会刊「春草総合年譜」、昭和41年発行の「菱田春草」春草研究委員会・下伊那教育会刊、さすが詳しくハッキリしてきた。兄弟はNETで調べた。
春草は、士族の父 鉛治、同じく士族の母 くらの7人兄弟の4人目3男として、明治7年9月21日飯田市仲ノ町に生まれその名を三男治と言った、その2年後長男 瀬平が11歳の若さで他界する。父は、藩から禄をもらっていましたが藩士でなく職業を探さないといけなく明治11年に開業の百十七銀行(今の八十二銀行)に勤められ、仲ノ町の家(400坪弱平屋建て)もそのままで、まあまあの暮らしと推測される。
兄 為吉は、群立飯田中学から東京物理学校(現東京理科大)を卒業し教授として活躍し、後に皇太子(後の大正天皇)の教育係りを拝命する。春草37才の時、出品した六曲屏風一双「雀に鴉」が宮内庁お買い上げになり、明治天皇はこの屏風を御居間に長い間置かれ、殊の外愛されたとのこと、春草死後にも絵を1000円で買われたのも有名である。兄弟揃って、天皇家に関わりがあるとは、これも凄いことである。
16歳の時4日間を掛け、上京した春草は、兄の下宿に同居して、美術学校に通う、費用は兄が全て面倒を見た。
その後結婚し4人の子供に恵まれるが、長女は生まれるとすぐに亡くなって、家系図にも載っていない、後男3人である。(長男 後に美術院事務局長)、兄の生涯献身的援助が、大天才春草をつくり上げたと言っても過言でないと言う。
兄為吉も、絵が好きで、自分も絵の道に進みたかったが、家庭の事情等で、その気持ちを春草に託した、しかし東京理科大学近代科学資料館には、大きな功績が残されている。多面体木工法 開いてみてください。
http://ww6.enjoy.ne.jp/~hiro-4/tamekiti.html
弟 唯蔵は、明治14年6月に飯田市仲ノ町に6人目4男として生まれ、飯田中学の第1期生から東京帝大(現東京大学)を卒業43年には文部省留学生としてドイツ、イギリス、アメリカへ派遣され帰国後は九州大、東京帝国大教授をし、明治、大正の航空工学者として知られている、45才没。兄弟揃って、優秀である。
こんな訳で、ひょっとしたら飯田高校同窓会名簿に兄弟揃って載っているのかと、同窓会を訪ねた訳です。幕末後動乱期 明治15年創立で下伊那郡立飯田中学は県立飯田支校になり、明治19年一府県一中学制度の制定により廃校となってしまった、改めて明治26年長野県尋常中学校飯田支校から松本中学飯田支校とされ明治33年長野県飯田中学校(島地校長)になった。春草7才明治13年第20番中学区第1番小学飯田高校(現追手町小学校)初等科に入学し中等科・高等科を15才の時卒業している、丁度その狭間であった。(この時兄為吉は東京物理大卒業第1期生総代謝辞を読む)。
こんな訳で私の春草を追ったのは2ヶ月に渡りましたが、春草の凄さと、支えた兄と奥様の苦労は計り知れないものを感じました。春草生涯や作品の説明は是非「菱田春草」を読んでください。画家生活を第1第2第3期と区別していますが、私としては、死の前の作品が、春草の本来の画質と思われます。残念なのは、生涯自分の絵を追求した春草には、「まだ勉強中だから弟子は取らない」と、弟子がいないのと、春草流派がいないことである。
没後100年2つの展覧会 長野県信濃美術館(長野市)9月10日~16日 飯田市美術博物館 9月3日~10月2日
(写真 春草家族と兄為吉 Netから)
(斎藤 純)



小さな部落の小さな行事・“風送り、虫送り”の今と昔
南信州・昼神部落でも、「五穀豊穣」を祈願した“風送り”、田畑の「病害虫駆除」を願った“虫送り”の行事が、毎年8月25日に行われている。
以前、 “風送り”は、高い木のてっぺんに、「五穀豊穣祈願之旗」を立てて祈願したそうであるが、昼神では、一度、けが人が出たことがあって、木の上に旗を立てるのはやめたとか。また、“虫送り”の方も、子供たちが“麦わらの松明”を作って火を点け、「病害虫駆除之旗」を先頭に、部落中の田畑を廻って、害虫駆除を願ったそうであるが、神社から部落境までの間の国道沿いの“虫送り”に変わったようである。以前の行事のことは、今の四十歳台末から五十歳代ぐらいの人々が覚えているところを見ると、四十年位前まで、昼神に温泉ができる少し前までは、昔からの形が続いていたらしい。
現在は、子供の数が減少し、松明などの殆どの準備は大人がしている。子供たちが学校から帰り顔を出し、顔ぶれが揃うと、阿智神社の拝殿前で、鳥居と拝殿の間を行き来して、お参りを十回繰り返す(写真上段の左)。その後皆でそろって神社から出発する(写真上段の右)。昔の田畑は、今は、温泉街の一部となってしまったので、国道256号に沿って部落境まで、松明を掲げて“虫を送り”ながら移動する(写真下段の左)。そして部落境ですべての松明を燃やして、“虫:病害虫”を隣の部落に“送って”終了する(写真下段の右)。病害虫を、お隣に送り込んで安心というのは、多少気が引けるのであるが、どこでも同じようである。
四十数軒の小部落では、子供の減少は目に見える形で極端に現れる。この行事も一昨年よりも昨年、また今年と子供の数が少なくなって大人の占める割合が多くなっている。しかし、それでも古い行事を何とか守ってゆく意思だけは消えないでいる。
(原 健彦)
菱田春草没後百年記念特別展
- At 2011年8月24日
- By admin
- In ふるさと情報便
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菱田春草没後百年
飯田市では、春草没後百年に合わせ、いくつかのイベントが、計画されている。
飯田市美術博物館では、「没後百年記念特別展」を9月3日~10月2日まで春草晩年の探求‐日本美術院と装飾美‐と題し春草の最期の画風になった装飾美傾向に焦点を合わせ、横山大観・下村観山等の大作も展示、明治40年代を探求。9月4日には飯田能実行委員会主催の 飯田初「能楽」が文化会館で開演される。題材は、春草画の「菊慈童」中国の山麓よりいでし水 菊の葉と共に、不老不死の霊水と成って流れ出る、慈童は長寿を文帝に捧げるストーリー。
春草生誕地、飯田橋北地区では、橋北まちつくり委員会が中心となり、現地に、顕彰碑を建て、春草の作品美をイメージした庭園を整備することも検討している。秋には、募金活動が始まる。確かに、小さな木の看板だけでは、飯田の偉人に、申し訳ない。
飯田市では、没後百年を期に8件を市有形文化財に指定した。すでに、多くが国重要文化財、県宝、市文化財に指定されている。
ある本に、菱田春草の生涯を紹介している、東京美術学校(岡倉天心校長)に入学、大観・観山と行動を共に、日本美術院創設に参加し、大観と共に、インドから、アメリカ・ヨーロッパでも制作に勤しんだ。しかし その生活は貧苦であった。それに腎臓病から来る眼病で苦しみ37歳で失明している。その年9月16日死亡した。その直後、明治天皇が、春草の絵に魅せられ「苦行の図」を千円で買い上げられたことから春草の絵が暴騰し始める。
死後、春草の墓は飯田市箕瀬の拍心寺に生誕地と共に故郷に永く留めらた。菱田家の墓は東京中野、大信寺に分骨と共に移された。
あの世界的画家オランダの「ゴッホ」も同じような生涯を送っている。最後の10年で描いた様であるが、貧困の中、生前には1枚だけが売れた。同じく37歳没。
(写真と新聞‐柏心寺春草墓・飯田市仲ノ町春草生誕地の看板・南信州新聞7/27付け)。


(原 健彦)
三六災 災禍50年各地で語り継ぐ会 他
- At 2011年7月30日
- By admin
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三六災 災禍50年各地で語り継ぐ会
東日本大震災・福島原発被害は日本全国・世界に衝撃を与えた。既に4ヶ月を迎える。政府の対応が遅くなかなか進まない復旧、1ヶ月足らずで何千億円の義援金 1億人の気持ちと、海外からの募金、一刻も早く被災者へ。
今回の災害に比べれば、規模は小さいとは言え、下伊那各地で、大きな被害を受けている。この信濃毎日新聞切抜きの中の、長野県南部を襲った災害も50年を迎え、死者行方不明が多かった大鹿村では「殉難之碑」に献花と犠牲者のご冥福を祈った。大鹿村大河原 大西山の崩落に遭遇した、今井さんの言葉が、日本人の強さを感じさせる。大西山崩落で、自分の家や知人友人を目の前で失い、泥だらけで高台に逃れ、身も心も全て失った時、鍋釜を皆に分けてもらった事、「お世話になった方々を忘れてはならない」と。本当に感謝の気持ちと、みなの協力で、立ち直っていける力はすごい。
私は飯田市でしたが当時高校1年生、着る物も無い時代に、救援物資が有り難かった事、重機はブルだけ、スコップで、応援してくれる、自衛隊、今で言うボランティア隊、これぞ日本人の心根だ。
今回の大震災、まだ余震が続く中、長野県内では栄村に続き6月30日長野県中部を、震度5強の地震が襲った、幸い死者は無かったものの、負傷者や、建物の崩壊が遭った。飯田市も戦後から、昭和22年大火、36災害と大きな災害を受けてきたが、だんだんと時代が変わり、風化されることがさびしい、「災害は、忘れた頃にやって来る」よく言ったものだ。今回の度重なる災害を教訓に、天災を防ぐ事は出来ないものの、心構えと、被害軽減に努力しなければならない。
(信濃毎日新聞切抜きと、三六災飯田市営球場横と、自分の田んぼにたたずむ夫婦、服装は戦後のまま・丸山公民館展示品)
飯田市の36災害写真集 ↓
http://www.cbr.mlit.go.jp/tendamu/date/pdf/denshi/36-all.pdf#search=’36
(斎藤 純)
三遠南信道と自然破壊
伊那谷では、リニア中央新幹線の長野県内のルートとして、南アルプスをトンネルで通過する案が決定したため、この話が第一の話題となっている。三遠南信自動車道の方は、この分野での話題としては二番手となった感じであるが、工事の方は着々と進められている(写真上は国土交通省・中部地方整備局・飯田国道事務所のHPから)。既に開通している中央道山本ICから天竜峡ICに続き、国道256に繋がる飯田東ICまでの間(飯喬道路第2工区)も徐々にその姿を現してきた。谷を橋でつなぎ(写真中左)、山を穿ち(写真中右、写真下左)天竜川左岸の丘陵を北上しているのが見えるようになった。後期高齢者になろうとしている私も、リニアは無理であるが、この三遠南信自動車道を遠山郷位までは、走れそうな気がしてきている。
リニア中央新幹線の話題では、時に、中央構造線を横切る危険性、また、自然環境破壊の問題が語られている。中央構造線については、どこを通っても同じで、また、断層がいっぱいの地震国の日本ではどこも危険が伴うという論もあるが、自然環境を破壊するという話は、それが直接に目に見えるため、頷かざるを得ない。
しかし、三遠南信自動車道の方も、徐々に姿を現してくるのを写真で追って来ていると、この自動車道も随分と自然を破壊していると思わざるを得ない。こうした工事では、更に、道路自身のみでなく、工事をするための仮設道路(写真下右)も山を穿ち、谷を跨ぐ形で自然を壊しているのである。大体、高速道路の多くは、随分と緑の山中を走り自然を破壊している。これは、人間の文明の進歩と自然環境破壊は同居せざるを得ないということなのであろうか??
(原 健彦)
松尾多勢子と日夏耿之助
- At 2011年6月30日
- By admin
- In ふるさと情報便
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ここはホームページ運営委員が担当しています。
ふるさと南信州のようすをお届けする毎月更新のお便りです。
二枚の新聞切抜き、飯田地方新聞は、リニア新幹線と東日本大震災の記事で賑わっている。
多勢子生誕200年を記念してか、あちこちで研究会・学習会が開かれていて、日本史にも名を残した女傑に付いて理解を深めている。その中でも、生誕地山本地区では、顕彰歌碑の建立事業が進められている、寄付を集め、大きさ等検討の上、杵原学校(旧山本中学校)の一角に今年の11月をめどに建立予定である。
リニア新幹線の飯田駅が実現するとなれば、魅力ある街つくりを考えなくてはいけない。
一方、飯田市名誉市民・詩人・英文学者、日夏耿之助(中7)の関連資料631点が寄贈させる。
日夏の妻 添さんの甥である 故・松岡耿介さん(中47)が教員時代から長年にわたり日夏研究をしてきた全ての資料を、飯田市に寄贈した。これらの活用を考えているが、現在、中央図書館・美術博物館(日夏記念館)に保管されている。
見るもの、聞くもの全てを・・「寄って見たい飯田町」に作り上げたい。
(切り抜きは南信州新聞社5/25・26日付けより) (斎藤 純)
ご冥福をお祈りします/富士見台・恵那山の山開 他
- At 2011年5月30日
- By admin
- In ふるさと情報便
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ご冥福をお祈りします
東日本大震災 まだ多くの方の行方不明者がいる中、28日被災地では、四十九日法要が執り行われた。本当に、心からご冥福を祈ります。
飯田では、この日、飯田高校ラガーマンOBシュウテンこと田中秀典さん(高11回)が肝臓癌のため逝去された。
飯田市議会議員1期・飯田市長4期16年を勤められた。在任中は、市立病院建設・上郷町との合併・川路地区水没等の天竜川治水対策事業・環境文化都市・南信州広域連合等々に尽力された。30日には、通夜が営まれ、多くの弔問を受けた。葬儀は、改めて行うとのこと。ご冥福をお祈りします。
写真は、事業継承のため飯田に帰られた当時の若かりし思い出(50年前)と飯田市羽場坂「平安閣」で行われた平成21年同窓会総会アトラクションで、飯田高校吹奏楽班をバックに飛び入り「与作」を熱唱した。
(斎藤 純)
富士見台・恵那山の山開き
毎年4月29日は富士見台・恵那山の山開き。中津川市、阿智村の市長、村長や自治体、消防署などの関係者、旅館、ホテルなど観光事業に携わる人々、一般の山好きの参加者が集まり、東日本大震災、福島第一原発の事故などで被害に遭った皆さんを悼むとともに、元気を湧き立たせるも願って、更に、今年の山の安全を祈念し神事が行われた。
<富士見台は、まだ残雪を楽しむことができる。今年は、山開きの祭事は、多数の参加者による高山植物への影響も配慮し、富士見台への中腹の平坦地を避け、萬岳荘近くの小さな窪みで行われた。風が強く雪も舞い寒い日であったので、この窪みは風よけとなった(写真上左、右)。
木曽川から冷たく風の吹き上げる富士見台への尾根の向こう西側は中津川市。尾根の東側、伊那谷側は、風も弱まり、恒例となった大桑アルプホルンクラブの皆さんの演奏を静かに聞くことができた(写真下左、右)。
(原 健彦)
日本は一つ、皆で頑張れば、大きな力に 他
- At 2011年4月30日
- By admin
- In ふるさと情報便
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日本は一つ、皆で頑張れば、大きな力に!!
3月11日、今まであまり経験した事のない大きな揺れが、飯田にあった。震度4であった。飯田市内の信号も、ビルも大きく揺れた。
阪神淡路大震災の時は、震度3で、あれだけの災害になったから、今回は、それ以上である事は、すぐ分かった、報道が、だんだんと進むにより、その大きさに心が痛む、それに追い打ちを掛けるように、原発災害、その後、テレビ、新聞、訳の分からない原発内部炉の展開図、もっと知りたい事が沢山あるのに、政府も危険はないとの事、しかし原発も恐ろしい方向に向かっている。それと、まだ手付かずの町があるという、もっとやる事、報道の仕方があるのではないか。
飯田市広域連合は、南相馬市市長が5年前から、会合等で来飯されていた事から、被災者107名の受け入れを決め、16日迎えの派遣隊を南相馬市に送った。下伊那地区の市町村・沢山の企業が、被災地に向け物資等の輸送車を送る。喜久水酒造㈱浜島社長(高16回生)は、酒を詰め込む充填機を使って、猿庫の泉伏流水を詰め、激励のラベルを貼って、3000本を送り届けた、・・・等々。「私の力は、一粒の涙かもしれない、しかし沢山よれば、川にも、海にもなる」
(名言集より。)
被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げると共に、早い復旧を切に祈る(南信州3月18日付け)。
(斎藤 純)
初午はだかまつり
伊那谷の春の風物詩「初午はだか祭り」が3月13日の午後、時又で行われました。
白馬や樽、米俵などをかたどった大人みこし9基を120人の男衆が、6基のこどもみこしを保育園の子供たちがかつぎました。長石寺を午後1時に出発し、地区内を練り歩きました。
はだか祭りというと、雪が場合がけっこうあるのですが、この日の飯田地方は最高気温が16度と、4月上旬並の暖かさでした。
地区内を練り歩いたみこしは、午後2時半頃天竜川の時又港に到着しました。地元駄科の鈴岡太鼓が祭りを盛り上げ、約3千人の見物客が見守る中、さらし一枚の男衆が「オンスイ、オンスイ」とかけ声をかけながらかつぐみこしは水温4度の川の中へ次々と入りました。
東日本大震災の直後という事もあり、全てのみこしに「震災お見舞い」と書かれた張り紙を掲げ、被災地支援の協力を呼びかけ、会場では義援金の協力も募っていました。
(高橋 秀治)



東日本大震災
3月11日午後2時46分に始まった東日本大震災。丁度その時間、私は、アップルロード沿いのエイデン(中央道飯田IC近く)の駐車場にいて、大きな横揺れを感じた。埋めたて地の駐車場はギシギシと音を立てていた。すぐに阿智村に帰宅し、テレビを見はじめた。
そして、その後も毎日、東北、北関東の地震跡の状況を見続けている。
我が家の家族は、水戸で四十数年間生活していたことから、知人、友人の状況を知りたくてあちこちに電話などで安否を確認していた。が、気仙沼や釜石などのすざまじい状況をテレビで繰り返し見ていたためか、いつの間にか地震前後の恐ろしい状況に変化に、麻痺してしまったようである。
しかし、最近、茨城県に住んでいた間に何度も訪れた五浦海岸の茨城大学五浦美術文化研究所にある“六角堂”が消えうせたと聞き、その状況を知った時に、突然、その恐ろしさを本当に実感した(写真上左は在りし日の六角堂、写真上右は津波で流失した後の六角堂の跡の状況)。人間の知恵・技術の範囲をはるかに超えた自然の力を、十分すぎるほど知らしてくれた。
春はやってきた。阿智村寺尾の座禅草の群生地でも昨年のように春は来た(写真下左は座禅草)。例年地元では座禅草の保全のために寄付を要望していたのであるが、今年は東日本大震災の被災者への義援金のお願いに変わった(写真下右は義援金お願いの立札)。
(原 健彦)